CEO問答

社名「むじょう」の由来は...?

q「むじょう」ってどういう意味ですか?

「むじょう」の由来は「常が無い」と書く方の無常です。永遠に不変なものはなく、何事も常に変化するという意味ですね。

qなぜ「むじょう」という社名にしたのですか?

私たちは変化にもっと優しい社会を目指しています。特に光を当てているのは「死」「別れ」「撤退」「衰退」といったネガティブに語られる変化です。

このような変化を「無常観」というフィルターを通して眼差すことで救われる人もいると考えています。

この無常観を現代に取り戻すため、社名を「むじょう」にしました。

q「取り戻す」ということは、かつて無常観は日常にあったということですか?

そうですね。かつてはもっと日常的に「しょうがない」という言葉を使っていたと思うんですよね。自然相手の仕事が多かったですから。今でも漁師や農家は日々「しょうがない」という状況に直面します。

海が荒れているから漁に出られない、しょうがない。今年は寒かったから実りが悪い、しょうがない。

自然相手だと、人間の力が及ぶ範囲がいかに狭く、自然には敵わないということを突きつけられます。

私はこれを「自然への負け癖」と言っているのですが、これが無常観というメンタリティと関係していると思っています。

qほう...「自然への負け癖」と無常観の関係について、もう少し詳しく教えてください。

「死」「終わり」みたいな変化って自然に起こりますけど、この自然への負け癖がないと、「しょうがない」って思えないんですよね。

大切な人を亡くして「しょうがない」で済ませられるかというと、そうはいかないですけど、その事実を受け入れる素地があるかという話です。

自然への負け癖がない、つまり死や終わりへの免疫がないと、強いショックを受けることになります。大きな喪失体験ですから、誰でもショックは受けます。ですが、その喪失体験と付き合って生きていく力は自然への負け癖と関連があるという仮説を持っています。

自然への負け癖を「自然現象がトリガーになって生じた変化に対してしょうがないと受け入れられる力」と定義したときに、その力を端的に表す言葉が「無常観」だったという感じですね。これが「変化に優しい眼差し」にも通じて行きmす。

qなるほど。では、今の事業は「自然への負け癖」をつける取り組みといえるのでしょうか。

そうですね。すぐに成果が出るわけではないですが...「生老病死」という内なる自然、特に「死」との出会い方をリデザインすることが無常観を取り戻す一歩になると考えています。

q「自宅葬」と「葬想式」がそれにあたるわけですよね?

はい。「自宅葬のここ」では自宅という日常に死を持ち込むことで、死を自然として捉え直すメンタリティが育まれることを期待しています。式場は非日常の空間なのでどうしても死が神聖化されすぎてしまいます。ご遺体との距離感も、自宅と式場でかなり違うなと、あくまで現場での肌感覚ですが感じますね。

当然、式場のメリットは大きいですし、それを否定するわけではありませんが、自宅で亡くなる人が増えている今だからこそ、自宅葬という選択肢の普及を通じて、死との出会い方、向き合い方をリデザインしていきたいと考えています。

思い出が集まる追悼サイト「葬想式」は、通常の葬儀だけではお別れの機会が失われてしまう人にも、死と向き合える場として期待しています。昨今、身内のみの葬儀の増加とともに、葬儀に参列できない人も増えています。葬儀に参列できないと、亡くなったという知らせが届くだけで、そこに実感が伴わないんですよね。これを「手触り感のない死」と呼んでいます。この状態が増えると、死の実感が薄れ、免疫がない状態になります。追悼サイトを通じて、リアルなお別れはできないけど、「あの人が亡くなった」と強く想像しながら思い出の写真を投稿したりメッセージを綴ることで、手触り感が生まれてきます。これも、現代の技術を使った死との出会い方のリデザインです。

なるほど、ようやく思想と事業の接続が見えてきました。
語る前田陽汰

変化に優しい眼差しを向けるとは...?

qなぜ衰退などのネガティブな変化に優しい眼差しを向けなければいけないのですか?成長するにはどうしたらいいか、本気で考えるほうが前向きで良いと思うのですが。

国力の盛衰は歴史を振り返ると「よくあること」です。事実として受け止めるしかありません。でも、衰退への対処の議論を忌避し、成り行きに任せるのは「よくあること」ではありません。

例えば、病気になるのはよくあることです。病気への対処(=治療法)を考えます。でも、病気への対処の議論を忌避し成り行きに任せたら重篤化してしまいます。今の日本はそれに近い状態です。

子供が成長したら服のサイズを大きくする。親が老いて腰が曲がったら服のサイズを小さくする。このように、非情緒的で計量的な問題として捉えられるのです。

成長するために本気で考えている人は大勢います。しかし、どのように衰退に対処するか考える人はそう多くないでしょう。成長を否定するのではなく、衰退に目を向けることも等しく重要であるという立場です。

q終わりに優しい眼差しを向けることは、情緒的にも感じます。どこに計量的な視点を持ってるのでしょうか?

当然、情緒的な問題も大きいです。先ほどの親の服のサイズの例をみてみましょう。「サイズ」は計量的な問題です。一方で「親が老いることを自分がどう捉えるか」は情緒的な問題です。衰退などのネガティブな変化を視る時、情緒的な問題が大きく映る傾向があります。そのため、議論を忌避するという反応が起きてしまいます。親の老いから目を背けたいと思う人は大勢いるはずです。

しかし、現実は受け止めなければいけない。その時に、計量的な側面に目を向けることで、向き合う第一歩が踏み出せると思っています。「ブカブカの服よりも、フィットした服の方が気持ちいいよね」と、老いによって生じた変化と付き合っていくきっかけになるのです。

これも1つの「変化に優しい眼差しを向ける」だと考えます。

社会課題を解決しなくていいの...?

qPolicyに「社会課題を解決しない」と書いてありましたが、それは企業としてどうなんでしょうか...?私はきちんと社会に目を向けて課題を解決しているような会社を応援したくなります。

厳密には「社会課題を解決すること」を第一の目的にしないという意味ですね。

「課題」とラベルを貼ることにあまり意味を感じないですし、罪悪感を感じます。

例えば、空き家問題って課題と言われていますよね。確かに「空き家そのもの」は課題です。倒壊したりボヤでも起きたら大変です。

でも、その課題の根源を探っていくと「家を解体しちゃうと固定資産税が上がる」「先祖代々の家(土地)を手放すのは気が引ける」など合理的な理由があるんですよね。それを「課題だ!」とラベリングしても、空き家の所有者は「わかってる!ごめん!」となるわけです。(まぁ、わかってない場合もあるわけですが)

なので、課題とラベリングすることってそんなに意味ないんですよね。むしろ、課題を解決「する側」「される側」みたいな分断が生まれてしまう。その分断は結果的に課題解決の足枷になると思います。

各ステークホルダーの合理性に目を向け「みんなハッピー」な状態を目指した方が結果的に解決への近道だと思います。

qひねくれているようにしか思えません。課題解決こそ、企業の存在意義だと思います。

確かにひねくれているかもしれませんね(笑)「課題」が事業の種になることもあれば、「関心事」が事業の種になることもある。種は何でもいいと思います。誰かを幸せにしたり、困ってる人の助けになるサービスが必要とされて生き残るわけですから、最終的に行き着くところは同じなんですよね。あくまで、取り組みの姿勢の話です。

ありがとうございます、色々聴けて良かったです。